武将印紹介15「立花道雪」(墨将印)

天正元年天正十三年(1585)9月11日は大友家の名将・立花道雪(戸次鑑連)が筑後北野高良山の陣中にて73歳で病没した日となります。

大友三家老あるいは豊州三老の一人として知られる豊後大友家の重臣・立花道雪は永正十年(1513)三月十七日、豊後大野川流域の戸次庄を本拠とする大友氏の一族、藤北鎧嶽城(大分市/豊後大野市)主・戸次常陸介親家の二男として生まれました。幼名八幡丸、通称は孫次郎、長じて戸次鑑連と名乗り丹後守(丹後入道)・紀伊守(紀伊入道)・伯耆守を称します。のち立花氏の名跡を嗣ぎ、また出家して麟白軒道雪と号したことから立花道雪の名で広く知られ、また勇将・立花宗茂の養父でもあります。(以下、呼称は道雪で統一します)

 

 

 道雪は生涯大友家の支柱として活躍しました。ある時は切り込み隊長として、またある時は大友宗麟の諫言役として、まさに八面六臂の活躍と言って良いでしょう。道雪の勇名は遠くにまで聞こえ、あの武田信玄がぜひ会ってみたい武将だと評したと伝えられます。下半身不随というハンデを背負いながら、道雪は兵に担がせた輿の上で陣頭指揮を執り、「えいとう、えいとう」の掛け声とともに見事な進退で、戦いに敗れることがなかったと言われています。

 大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、家運は斜陽の一途をたどります。しかし道雪はそんな大友氏にあって、名将・高橋紹運とともにひたすら家を支え続けました。男子のいなかった道雪は、始め難色を示した紹運を「御家のため」と説き伏せ、紹運の嫡子・後の立花宗茂を養子に迎えますが、その際の道雪の言葉は感動的なものでした。

「私はもう七十歳。御家は衰運であろうか、賊徒は戦に敗れても日増しに勢いが強まり、味方は勝っても日々勢いは衰えてゆく。近くは島津・龍造寺、遠くは毛利という大敵を、我死して後に誰が御辺(紹運)と力を合わせて大友家を支えるだろうか。宗茂をして戸次の家を嗣がせ、私が死んだ後にも御辺と心を合わせて国を支えるべきである。私の家のためではなく、国のために是非とも願う次第である」

 道雪の国を真摯に思う心に打たれた高橋紹運は、最愛の嫡子・宗茂を道雪の養子としました。そして宗茂もまた、道雪・紹運にも恥じない名将に成長します。しかし猛将・道雪も病には勝てず、筑後に出陣中のこの日、北野高良山の陣中にて大友家一筋に忠誠を尽くした生涯の幕を閉じました。

 

愛刀「千鳥」(雷切)

 彼がまだ若い頃、とある夏の日に急に降り出した雨を避けるため大樹の下で雨宿りをしていた時、突然落雷に遭いました。奇跡的に一命はとりとめたものの、これより生涯下半身不随の身となってしまいます。その際道雪はとっさに愛刀「千鳥」を抜き、稲妻の中にいた雷神を一刀両断に斬り伏せ、以後この刀を「雷切(らいきり)」と名付けて生涯肌身離さず所持したと伝えられています。そんな道雪を家臣たちは雷神の生まれ変わりとして信じたため、戦えば必ず勝つとの信念が生まれ、その兵は大友家中でもっとも強かったと言います。

 

 

 兵法にも長け、大友家の義将として名高い道雪。墨将印のほか、家紋が選べる「連結アクリルキーホルダー」「スクエアピンバッチ」など、関連するグッズがありますので、こちらもぜひご愛顧いただければありがたく思います^^