【今日の出来事】第四次「川中島の戦い」

本日9月10日は永禄四年(1561)第四次「川中島の戦い」のあった日です。

 

 越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄の間で起こった、戦国時代を代表する戦いのうちの一つである川中島の戦いは、永禄四年(1561)のこの日、信濃川中島を舞台に行われました。

 ところで、川中島の戦いというのは天文二十二年(1553)八月以降、この戦いを含めて五回行われており、この戦いは四回目に当たるのですが、通常「川中島の戦い」と言えば謙信・信玄両者が直接激突した、この四回目の戦いのことを指します。

 この前年八月、謙信(当時は長尾景虎)は関東管領上杉憲政らの要請を受け、北条氏に圧迫されている国人衆を救援するため関東へ出陣、厩橋城(前橋市)へ入りました。謙信は北条氏に奪われた北関東の諸城を奪還した後、この年の三月に北条氏の本拠・小田原城(神奈川県小田原市)へ迫って攻撃を加えますが城は落とせず、翌月に鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任、山内上杉憲政から上杉氏の名跡を譲り受け上杉政虎を名乗りました。

 六月末に一旦越後へ帰国した謙信は、八月になって信濃海津城(長野市)攻めに出陣、十六日に城の西南西にある妻女山に陣を敷きます。対する信玄も海津城からの救援要請を受けて甲府を出陣、二十四日に川中島へ到着しました。両勢とも暫く様子見を行いますが、九月九日になって武田勢が動き、合戦の気運が高まります。一説には信玄がこの日軍議を開き、その席上にて山本勘助が「啄木鳥(きつつき)の戦法」を献策、信玄がこれを採用して先に動いたと伝えられています。

 信玄は兵の半分を割いて妻女山の上杉陣に夜襲をかけさせ、上杉勢が山を降りたところに本体を先回りさせておき、挟み撃ちにしようとします。しかし事前にこれを察知した謙信は、密かに全軍に海津城と反対方向(南西)に下山を命じた後、千曲川・雨宮の渡しを渡って大きく迂回し、主力軍を八幡原へと移動させました。信玄は計画通り残り半分の兵を率いて未明に八幡原へ転進、濃霧の立ちこめる中で退却してくる上杉勢を待ち受けます。ところが夜が明けて霧が晴れると、信玄の目の前には予想外の光景が広がっていました。上杉勢が整然と八幡原で待ち受けていたのです。

 戦いは遭遇戦の形で始まりました。始め武田勢は兵数が少ない事もあって苦戦しますが、途中で妻女山攻撃隊が戦闘に加わると、今度は上杉勢が苦戦に陥りました。戦いは正に大激戦となり、双方とも大きく兵を損じました。とりわけ武田方では信玄の弟・信繁や諸角虎定・山本勘助らが戦死、将の損失という点では武田方の失ったものが大きい気がします。しかし謙信も甘糟近江の奮戦はあったにせよ敗走に近い形で戦場を離脱しており、結果は両者痛み分けの形で勝負は付きませんでした。

 この後同七年八月にも謙信は川中島へ出陣、信玄も近くまで出陣しますが衝突には至らず、以後両者がこの地で戦うことはありませんでした。

 

 

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