武将印紹介22「留守政景」(墨将印)

慶長十二年(1607)2月3日は伊達政宗の重臣留守政景が陸奥一ノ関城で病没した日となります。

 伊達政宗の重臣として知られる留守政景は、天文十八年(1549)に伊達晴宗の三男として生れました。輝宗の弟で政宗の叔父に当たります。幼名は六郎、晩年には雪斎と号し、妻に黒川晴氏(月舟斎)の娘を娶っています。永禄十年(1567)、十九歳の時に留守顕宗の後を嗣いで高森城(仙台市宮城野区)に入り、以後は伊達氏の中核戦力として諸所の合戦に出陣、特に相馬氏との戦いなどで活躍しました。ちなみに伊達政宗は、政景が留守氏を嗣いだ永禄十年に生まれています。

 政景は数多くの戦陣で活躍しました。中でも天正十三年(1585)十一月の仙道人取橋の戦いでは、伊達勢の殿(しんがり)を務めた勇将・鬼庭良直が壮烈な戦死を遂げるなど非常な苦戦となりますが、政景は奮戦して政宗を守りました。さらに同十六年一月、政宗は大崎義隆討伐に向け政景と泉田重光を大将として出陣させますが、政景の岳父・黒川月舟斎晴氏が大崎方についたため伊達勢は大敗を喫しました。政景は敗軍の兵をまとめ、危険を承知の上で月舟斎の拠る桑折(こおり)城(宮城県三本木町)を通過しますが、その際晴氏は追撃を主張する声を抑えて政景を無事に通過させました。

 政宗はこれを根に持ち、同十八年の秀吉による奥州仕置きが行われた後に晴氏を捕らえて処刑しようとしました。しかし政景は必死に晴氏の助命嘆願を行い、晴氏を自分の保護下に置くことに成功します。その後朝鮮役の際には渡海して転戦、慶長五年(1600)の関ヶ原の際には最上義光の援軍として長谷堂城に出陣、上杉方の名将直江兼続を破るなど、まさに生涯を戦陣に過ごしました。同九年十月に一ノ関城(岩手県一関市)に移って二万石を領しますが、やがて病を得てこの日没しました。享年59歳。

 

 

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