武将印紹介16・17「丹羽長秀」「森可成」(墨将印)

 天文4年(1535年)9月20日は丹羽長秀が生まれた日となります。長秀は筆頭家老だった柴田勝家と共に織田家の双璧を成した織田家臣団のナンバー2です。

 その性格も乱世の世にあって冷静沈着で温厚、自己主張をしないというかなり珍しい名将だったと伝わります。さらに信長の一歳年下と歳が近かった事や、その誠実さを信頼していた信長は「長秀は友であり兄弟」とまで語ったという人物でした。

 さらに信長は「長秀は織田家になくてはならな人物」として長秀を米に例えて『米五郎左』と呼んで重宝し、家臣団の中で初めて国持大名となったのもこの長秀でした。温厚だったことで知られる長秀ですが、一方でいざ合戦となれば「鬼五郎左」と恐れられた戦上手でもありました。信長が足利義昭を連れての上洛を試みた際、上洛の協力要請を拒否した六角家に対して信長は長秀を派遣しました。長秀は佐久間信盛や木下藤吉郎を連れて3,000の兵で箕作城(現・滋賀県東近江市)を攻撃しますが、ものの一日で陥落させています。その勇猛な戦いぶりから「鬼五郎左」の異名が轟き、定着したとされています。

 その後の1581年「京都馬揃え」でも明智光秀や柴田勝家を抑えて先頭を任された事からも、信長からの信認度が伝わるかと思います。

 他の宿老たちが各地で司令官となる中、軍事・内政共に優れたいた長秀は信長の傍に留め置かれました。また穴太衆の高い石垣技術に目を付けたのも長秀だったとも言われており、安土城の築城が命じられると穴太衆を呼び寄せて総石垣の城を完成させています。

 気のせいかもしれませんが、近年では織田家を乗っ取ろうとする秀吉に激怒して割腹して内臓を送りつけたという逸話は聞かなくなり病死だったという事ですが、織田家でも世代交代を象徴する出来事でもありました。

 

 

森可成戦死

また本日元亀元年(1570)9月20日は森可成が亡くなった日でもあります。

 森可成は森長可・蘭丸・坊丸・力丸の父として知られる美濃金山城主です。織田信長の11歳年上だった可成は信長の尾張・美濃における戦いで特に活躍しました。武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った十文字槍の使い手でした。

 その最期は永禄11年(1568)「志賀の陣」として知られる宇佐山城の戦いでした。信長が足利義昭を奉じて上洛すると、可成は京都・畿内における行政官を務めていました。そしてその4月、信長は越前朝倉討伐に向け京都を出陣。金ヶ崎城(福井県敦賀市)を落として進軍しましたが、同盟関係にあった浅井長政の離反により全軍撤退を余儀なくされました。その退却の最中、可成は近江国の備えとして宇佐山城(滋賀県大津市)に入りました。

 九死に一生を得た信長は、6月には姉川の戦いで浅井・朝倉勢を撃破。8月には一転して摂津天王寺に出陣、三好三人衆と対峙しました。しかし9月12日には三好三人衆に加担する形で本願寺も挙兵。信長は再び窮地に陥りました。浅井・朝倉勢もその気を見逃さず、30,000の大軍を率いて京に向けて攻め寄せ、可成の守る宇佐山城へ迫りました。

 

 可成は信長の弟・信治と城を守っていましたが、加勢が来るまで城を守り切ることは出来ないと、わずか1,000人の兵を率いて打って出ます。しかし多勢に無勢は変わらず、信治らとともに果敢に戦うも下坂本にて戦死、47歳の生涯の幕を閉じました。しかしこの活躍は無駄ではなく、24日には信長が駆けつけ、浅井・朝倉連合軍は比叡山などに徐々に追い込まれる形となり、比叡山焼き討ちへと進むことになりました。

 

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