武将印紹介39「石田三成 采配」(墨将印)

慶長五年(1600)9月21日は近江伊吹山中古橋村に潜伏していた石田三成が田中吉政に捕らえられた日となります(´;ω;`)
三成公が潜伏していたという伝承で有名なのが「オトチの岩窟」ですね。

こちら観光スポット(?)とはいえ危険も伴う山中なので、複数人での入山がオススメであったり、それなりの注意や準備も必要なところになりますので悪しからず^^;
 

オトチの岩窟は行く時期を選びますが、ゆかりの地巡りや三成公法要にも数年ぶりに足を運んでみたいな~と思う今日この頃です。

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石田三成が主人公のドラマと言えば司馬遼太郎原作『関ヶ原』(TBS)という大作が残っていますが、大河ドラマとしてもいつか観てみたいですね✨

 

※こちらは昨年の『出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖2022』(甲賀)での限定印。昨年は台風により来れなかったという方が多かったため、今年の『出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖2023』でも在庫分に限り販売予定です。 

慶長五年(1600)9月21日 石田三成捕らわる

 慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康の率いる東軍と石田三成の指揮する西軍が美濃関ヶ原において激突、わずか半日の戦いで西軍は大敗しました。三成は奮闘していましたが、西軍の敗勢が濃厚となると数名の家臣とともに関ヶ原を脱出、北国街道を伊吹山方面へ走ります。「治部少輔(三成)ハ其身数多ノ重創ヲ蒙リ」と伝える記録もあり、ひょっとすると三成は満身創痍の状態だったのかもしれません。彼の敗走ルートや捕縛時の場所などには色々な説がありますが、そのうちの一つをざっとご紹介します。

 三成は戦場を離れると、伊吹山麓から草野谷(滋賀県長浜市草野町)へと出ますが、ここで付き従う家臣は磯野平三郎・渡辺勘平・塩野清助の三名に減っていました。三成はどうしても付き従うという彼らを諭し、「運が開けるならば大坂で再会しようぞ」と誓ってここで別れを告げます。

 単身となった彼は、山道伝いに北上して伊香郡の高野村(同高月町高野)に入り、さらに北にある古橋村(同木之本町古橋)へ向かいます。このあたりは三成の生誕地(長浜市石田町)に近く、土地勘があったのかもしれません。とは言え、彼は破れ笠を頭にかぶって身には古蓑を纏い、腰には一柄の鎌を差していたと伝えられています。

 その後古橋村の三珠院に身を寄せますが、やがて村人たちの知るところとなり、寺に居づらくなった三成は、同村の農民・与次郎太夫を頼って岩窟に隠れました。ところが村の名主がこのことを密かに嗅ぎつけ、役人に報せるぞと与次郎に告げました。窮した与次郎は三成に正直に事の顛末を伝えたところ、三成は覚悟を決めて井口村(高月町井口)の役人に連絡させたといいます。

 これより先の九月十八日、佐和山城を落とした家康は田中吉政に命じて三成の探索をさせていましたが、吉政のもとに三成発見の報せが飛び込みました。三成と仲が良かった吉政は、三成の顔を知っている家臣の田中傳左衛門(長吉)を派遣、傳左衛門は三成の身柄を確保すると、この日吉政のもとへ護送しました。三成は悪びれた様子などはなく、形見として正宗の脇差しを吉政に与えます。吉政も三成と以前の如く接し、丁重にもてなしました。三成は腹の調子が悪いからと言って韮雑炊を所望して平らげ、その後いびきをかいてぐっすり寝込んだと伝えられています。