今日の出来事

天正六年(1578)の今日7月14日、九鬼嘉隆の指揮する鉄甲船が泉州淡輪沖で雑賀水軍を玉砕しました。
先にご報告となりますが7月の新作墨将印は「九鬼嘉隆」を予定しています。

そんな「海賊大名」の異名を持つ嘉隆公について、しばしお付き合いください^^

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 天正四(1576)年七月、大坂木津川河口の戦いで毛利水軍に完敗した織田信長は、九鬼嘉隆・滝川一益に命じて毛利水軍に対抗できる戦艦(大船)を建造させました。両名は急ぎ建造に着手、嘉隆は伊勢大湊(三重県伊勢市)で六艘、一益は伊勢白子(同鈴鹿市)で一艘をそれぞれ手掛け、この年の六月に完成しました。

 嘉隆の建造した大船は「黒船」と呼ばれる鉄甲船で、信長は早速六月二十六日に伊勢から熊野浦経由で大坂へと回送させました。一方、本願寺でもこの情報をキャッチすると、雑賀と和泉淡輪(たんのわ)の門徒に檄を飛ばし、大坂回送を阻止すべく和泉・紀伊の国境に近い淡輪海上で無数の船団を組ませて待ち受けさせます。

 この日、九鬼嘉隆の指揮する黒船が淡輪沖にさしかかると、待ち構えていた雑賀衆ら一揆の水軍が襲いかかってきました。雑賀衆は一斉に矢を放ち、得意の砲撃を交えて激しく黒船を攻撃します。しかし、黒船はびくともしませんでした。嘉隆は無数に散らばった敵船を出来るだけ引き寄せると装備された大鉄砲を一斉に浴びせ、片っ端から撃沈しました。機動力を誇る雑賀水軍も黒船の前には全く歯が立たず、その後怖れをなしたか攻撃を加える船は皆無であったと言われます。嘉隆はこの日一旦淡輪港に寄港すると、何もなかったように航海を再開し、十七日に無事堺へ到着しました。

 なぜ雑賀衆が手も足も出ない大敗を喫したか?答えは黒船の装備にありました。『多聞院日記』天正六年七月廿日条に、伝聞ながらその状況が記されています。

「堺浦へ近日伊勢ヨリ大船調付了、人數五千程ノル、横へ七間、竪へ十二三間も在之、鐵ノ船也、テツハウトヲラヌ用意、事〃敷儀也、大坂へ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々」

(堺の浦へ近日伊勢より大船が調えられてやってきた。人数は五千程が乗れ、大きさは横七間(約13m)・縦十二~三間(約40m)もある。鉄の船で鉄砲玉が貫通しないよう厳重な装備が施されている。大坂へ配備して敵の通路を塞ぐために用いられるそうだ)

 黒船は厚い鉄板で覆われており、人々の目には鉄で出来た船と映ったようです。信長は黒船を大阪湾に配備し終えると、九月三十日に堺で観閲式を行っています。そして十一月になると、いよいよこの船が活躍する場が与えられました。再び毛利水軍が大坂湾に現れ、両者は十一月六日に二度目の戦いを交えることになります。