武将印紹介35「宇佐美定満」(墨将印)

本日7月5日は宇佐美定満が亡くなった日となります。『甲陽軍鑑』で武田家に山本勘助がいるように、『北越軍記』には上杉家に宇佐美‟定行”ありという感じで書かれている軍師として有名です。

宇佐美「定満」は琵琶島城(新潟県柏崎市)主・房忠の子で、軍記物(『北越軍記』『北越耆談』『上杉三代日記(上杉軍記)』『川中島五箇度合戦之次第』『松隣夜話』など)には「定行」とあり、軍師としての定行像は定満をモデルにした架空の人物ではないかと言われています。

 

ちなみに上記『北越軍記』の著者は紀州藩士の越後流軍学者・宇佐美定祐なる人物が描いた上杉家の軍記物となります。孫もしくは曾孫にあたる人物という事ですがその真偽はわかりません^^;

 

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永禄七年(1564)7月5日 長尾政景とともに溺死

ともあれ、宇佐美定満は永禄七年(1564)七月五日、長尾政景(上杉景勝の実父)と信濃野尻湖で 舟遊び中に不慮の事故が起き、政景とともに水死したと伝えられる人物です。

 

『上杉将士書上』によると、定行(定満)は19歳より精進持斎して女犯を断ち76歳で亡くなったと伝えています。「持斎」とは自分の食い扶持を削ってでも他人に施したということであり、謙信に近い義の精神を持った人物だったことが分かります。

そんな定行も妻がいないまま57歳になったある日、名家である宇佐美姓が断絶となってしまうのを憂いた謙信の勧めを容れて妾を置き、翌年には嫡男左太郎(造酒之助)定勝・民部勝行を得たとされます。

永禄七年(1564)7月5日、定満は長尾景虎を誘い野尻池で舟遊びを行いました。
その様子を『上杉三代日記』から抜粋します。(記述は謙信の行動を記したもの)

「(永禄七年)同六月、謙信姉婿上田正景事に付、大江の斎藤下野守・色部修理亮を召し、密談あり。信州野尻宇佐美定行と内談あり。定行居城、柿崎琵琶島へ行き、五六日逗留。野尻へ帰り、飛脚を以て、野尻にて漁舟遊山あるべき由申遣す。長尾越前守正景父子三人、七月、野尻へ越し給ふ。同五日、舟にても、柿崎より池に出づる。舟底に穴を明け、のみを差入れ、池の中にてのみを抜き、舟に水入り沈む。正景組付き、水中に溺死す。残る人々、櫓櫂に取付き上がるもあり、救舟来たりて救ふもあり、正景三十九歳、定行七十六歳。(略)」
 この記録を見る限り、謙信は重臣たちを呼んで密談しており「事故」の裏には謙信の意図が見え隠れしますが、真相は闇の中です。

『上杉将士書上』でも「是には仔細有之候に付、跡目立たず、嫡子民部十五歳牢人致候」とあり、また定行は自分の意志で政景もろとも死んだのではなく、謙信がまだ幼かった時代からの政景との確執が尾を引いていたためであるとし、謙信と政景の間には複雑な事情(感情)があったことが窺われます。ちなみに二男の民部が「嫡子」とあるのは、兄の定勝が二年前に武蔵上尾で戦死していたためです。

 当時十歳であった政景の子・喜平次顕景は罰せられることなく、謙信の養子となりました(時期には異説あり)。顕景は後に上杉景勝となり、謙信没後にもう一人の養子である三郎景虎との争い(御館の乱)を制し、上杉家の家督を嗣ぐことになります。

 

分からない部分も多い武将でもありますが、この機会にぜひ「宇佐美定満」も調べてみてください^^