武将印紹介27「毛利元就」(墨将印)

明応六年(1497)の本日3月14日は「謀神」として名高い毛利元就が生まれた日となります。

墨将印(武将印)のご紹介と共に本日の出来事を少しお読みいただけましたら幸いです^^

 

毛利元就が安芸国吉田郡山に毛利弘元の二男として生まれる。当初中国地方の二大勢力であった大内・尼子両氏の狭間に揺れながらも、巧みな用兵と謀略を駆使して徐々に勢力を拡大、ついに中国地方を制する大大名にのし上がった名将・毛利元就は、この日安芸吉田郡山に毛利弘元の二男として生まれました。母は福原氏。幼名松寿丸、のち少輔次郎を称します。

 

 幼年期の元就を取り巻く環境は、決して恵まれていたとは言えませんでした。後に元就が自ら書状に認めた内容を基に、毛利本家を嗣ぐまでの事績を少しご紹介しましょう。

 

 私は五歳で母を亡くし、十歳で父をもなくした。十一歳の時に兄興元が大内義興に従って上洛したため、孤児同然の境遇になってしまったが、大方殿(父弘元の側室・高橋氏)は私の境遇を哀れみ、親代わりとなって私を育ててくれた。こうして兄が上洛して不在の三年間を過ごした。父弘元は多治比の城を私に譲ってくれたはずなのだが、私の後見役を務めた井上中務丞(元盛)が横取りして渡してもらえなかった。京都にいる兄からの指示も亡かったが、たまたま中務丞が亡くなったため、その後井上肥後守・伯耆守が取り仕切って私は多治比城へ入ることが出来た。(内容は意訳してあります)

 

 毛利元就の人格形成には、血の繋がっていない「大方殿」の影響が大きかったであろうことが推測されます。元就は十五歳で元服しますが、二十歳の時に兄興元が没したため、わずか二歳の幸松丸が本家の家督を嗣ぎました。ところが幸松丸も七年後にまだ九歳の若さで没したため、一部の反対はありましたが宿老衆の同意を取り付け、大永三年(1523)八月十日、吉田郡山城に入って毛利本家の当主となりました。

 以後元就は大内・尼子両氏の間を巧みに動きつつ勢力を拡大していきました。

 

天下を望まなかったという元就ですが、天下人とはまた違った魅力があるのが元就公!

ぜひゆかりの地にも足を運んでみて下さい^^

 

 

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