【今日の出来事】手取川の戦い

天正五年(1577)9月23日は上杉謙信が加賀手取川にて織田方柴田勝家らを追撃戦で撃破した「手取川の戦い」があった日です。

 天正四年十二月十九日、能登侵攻中であった上杉謙信が七尾城(石川県七尾市)を包囲します。当時能登七尾城主は、わずか五歳の畠山春王丸でしたが、長綱連・温井景隆・遊佐続光らの重臣たちがよく踏ん張り、翌年秋まで必死に上杉勢の攻撃を防ぎます。ところが閏七月二十三日に春王丸が流行病で急逝、この事態に長綱連は織田信長に救援を依頼すべく弟の連龍を密かに近江安土城(滋賀県安土町)へと送りました。知らせを受けた信長は八月八日、七尾城救援に向け柴田勝家を総大将として羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・佐々成政・前田利家ら錚々たる顔ぶれに四万八千の軍を与えて出陣させますが、謙信と手を結んだ一向一揆勢が立ちふさがって救援は失敗します。

 一方の謙信は畠山氏の重臣遊佐・温井らを調略、ついに九月十五日に城を落とすと、十八日に松波城(石川県能登町)攻略を長沢筑前に命じ、自らは織田勢と対決すべく加賀へ向かいます。ところが、勝家率いる織田勢が手取川を渡ったところで七尾城・松波城落城の知らせがもたらされ、加えて謙信が南下してきていることもわかりました。救援目標を失った勝家は、羽柴秀吉が突然隊列を離れて自領の長浜へ帰ったため軍の統制が微妙に乱れていたこともあり、撤退を決意して増水していた川を渡って兵を返しました。

 この機を逃さず、謙信は勝家らに攻めかかりました。織田勢は川をなかなか渡ることが出来ず、上杉勢の餌食となります。何とか踏ん張って退却に成功はしたものの、二千に及ぶ兵を失ったと伝えられます。謙信は能登の完全掌握がまず第一と考え、深追いはしませんでした。信長と謙信の後にも先にもただ一度の戦いは、こうして謙信の大勝のうちに終わっています。