【御礼】出張!お城EXPO滋賀・びわ湖

9月18日に開催されました「出張!お城EXPO滋賀・びわ湖」ですが、台風14号の接近による悪天候にもかかわらず、たくさんの方にご来場いただきました。戦国魂ブースにもお立ち寄り下さいました皆様にも心より御礼申し上げますm(_ _)m

 

開催地が甲賀市だったので、本当は限定印も「岡山水口城」か「水口城」にしたかったのですが・・・事前資料が足りずに断念しました・・・(´;ω;`)

とは言え、地元でも愛されている水口城は外せないという事で、、、、

当日の御歌頭さんのライブペイントでは水口城と水口レイピアを持った水口藩祖・加藤嘉明を描いていただきました!!

突然のお願いにもかかわらず、御歌頭さんもご対応、ありがとうございました✨

 

ちなみに限定印は開催日の前日・9月17日が「佐和山城の戦い」のあった日だったこともあり”滋賀のお城”という事で「佐和山城と石田三成」を販売させていただきました。

 

徳川家康率いる東軍は、関ヶ原合戦の2日後には石田三成の父・正継の守る近江佐和山城へ攻め寄せました。

という事で少し佐和山城の戦いについてもご紹介です。

 

佐和山城の戦い

 慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いで大勝した徳川家康は、その日(9月15日)は大谷吉継が布陣していた藤川台で宿営しました。そこで東軍諸将から戦勝の祝賀を受けますが、一人家康の前になかなか姿を現そうとしなかった武将がいました。自らの寝返りにより東軍大勝のきっかけを作った小早川秀秋です。家康は村越茂助に命じて呼びに行かせたところ、秀秋は家老の稲葉正成や脇坂安治らとともにようやくやって来ました。秀秋は寝返る時期が遅かったことに後ろめたさを感じており、家康の姿を仰ぎ見ることが出来なかったと伝えられます。しかし家康は彼の労を謝すと、脇坂らも含めて佐和山城(滋賀県彦根市)攻めの先手を命じました。

 

 16日、家康は軍を三つに分け佐和山へと向かいました。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番隊は細川・黒田、三番隊は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発、三方から佐和山城を目指します。東軍勢はこの日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)口へは小早川・脇坂・朽木・小川ら、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まります。家康は近くの平田山に本陣を置いて軍を指揮、正午頃には城を包囲しました。そして真っ先に攻めかかったのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝でした。

 

 戦場を脱出した石田三成は当時近江伊香郡の山中を彷徨っており、まだ帰城していませんでした。城では三成の留守を父・隠岐守正継と兄・木工頭正澄らが二千八百の兵とともに守っていましたが、正継は徹底抗戦の腹を決めると、東軍勢に猛烈な射撃を浴びせます。平岡らは切り通しから攻め上りますが、城方の津田清幽・重氏父子が必死で防戦、小早川勢は多数の死傷者を出して苦戦します。しかし兵力差はどうしようもなく、やがて池田隊が裏手の柵を乗り越えて城内に侵入、小早川勢も続いて二の丸へと侵入し、ここで城方と激戦が展開されました。

 

 残るは本丸のみとなったとき、家康は城方に関ヶ原の結果を伝えるとともに講和の意を伝えました。城方は戦意を完全に喪失し、正継は一族の自刃と引き替えに城兵や女子供を助命することを条件に開城を決意します。家康はこれを認め、翌日に正式に城の引き渡しというところまで決まったとき、異変が起こりました。

 

 18日早暁、突如として水之手口の田中勢が攻め上り、城内に乱入したのです。結果的には連絡の不徹底だったのですが、城方は当然騙されたと思ったでしょう。やがて本丸から火の手が上がり正継父子は自刃、三成腹心の家臣土田桃雲は三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付け、自らも十文字腹で果てたということです。

 生き残った城兵らは助命されましたが、城は後に家康の手で跡形もなく破壊されました。ちなみに三成は9月21日に伊吹山山中の古橋村で捕まっています(´;ω;`)