武将印紹介13「村上武吉」(墨将印)

本日はルイス・フロイスが「日本最大の海賊」と評した能島村上水軍の長・村上武吉が亡くなった日です。

海賊と聞くと荒々しい人物だったかのようにも思いますが、連歌なども好んだ教養ある人物だった事でも知られています。

 

近年では和田竜さんの小説『村上海賊の娘』でもその父として脚光を浴びた武吉。

ぜひ能島城の墨城印と共に武将印もご愛顧下さい♪^^

 

武将印 第4弾「村上武吉」(墨将印)

武将印 第4弾 村上武吉(墨将印)のご購入はこちらから (税込330円)

村上武吉(墨将印)を含むパーフェクトセットのご購入はこちらから (税込2,640円)

 

 ■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

 

「丸に上」の家紋グッズ

スクエアピンバッチでは57番目に「丸に上」の家紋がございます。

まだまだ村上グッズは作れておりませんが、こちらもぜひご検討下さいm(_ _)m

選べる79種類!スクエアピンバッチはこちらからご確認下さい。

 

墨城印「能島城」

 第12弾 墨城印「能島城」はこちらからお買い求めいただけます。

 

 

慶長九年(1604)8月22日 村上武吉死去

瀬戸内(村上)水軍の頭領・村上武吉が周防屋代島にて没す。享年72歳。

 戦国期の海賊として広く知られる村上大和守武吉は天文二年(1533)、掃部頭義忠の子として生まれました。通称は少輔太郎(幼名は道祖次郎とも)のち掃部頭(かもんのかみ)、大和守を称します。能島村上氏四代当主の義雅が若くして没すと家督相続争いが起こり、武吉は義雅の嫡子・宮内少輔義益と家督を争いますが、敗れて一時肥後の菊池武俊のもとへ逃れました。家督相続争いは続きましたが武吉は肥後で元服、この「武吉」の諱は菊池武俊の一字を拝領したものと伝えられています。その後武吉の後見人である叔父・左近大夫宗勝(隆重)の活躍で義益一派を制すと、武吉は隆重に迎えられて能島村上氏五代当主となりました。

 

 武吉が歴史の表舞台に登場するのは、弘治元年(1555)十月の厳島合戦の際のことです。これはクーデターを起こして大内義隆を滅ぼした陶晴賢と毛利元就の間で行われた戦いですが、毛利方に加担した武吉は(参戦要請は両氏からあった)毛利水軍と行動を共にし、毛利勢が大勝する一方の原動力となりました。こうして武吉は親毛利氏の立場を取ることになりますが、村上水軍は古来よりどの大名にも属さない独立勢力で、通常は瀬戸内海を往来する商船などから警護料の名目で徴収する「帆別銭(ほべちせん)」と呼ばれる通行税が収入の主な柱でした。

 

 天正四年(1576)に行われた木津川海戦でも、毛利水軍とともに出動した村上水軍は大活躍して織田水軍を撃破していますが(二度目の戦いでは敗れています)、豊臣秀吉はこうした村上水軍の存在を嫌い、同十六年七月八日に海賊禁止令を発令、武吉の行為を「海賊行為」と見なして一切禁止しました。秀吉に従属した来島氏は大名となりますが、反発して帆別銭を徴収し続けた武吉は瀬戸内海を追われます。武吉は小早川隆景に従って筑前名島(福岡市東区)へと移りますが、朝鮮出兵の際にまたもや秀吉から長門大津郡への移住を命ぜられます。

 武吉が瀬戸内海に戻れたのは秀吉の没後でした。安芸竹原の鎮海山城に長男の元吉とともに住みますが、関ヶ原の戦いの際に西軍に付いた元吉は、伊予松前(まさき)城(愛媛県松前町)の加藤嘉明を攻めた際、古三津刈屋口の戦いで戦死してしまいます。落胆した武吉は翌年元旦に二男の景親を頼って孫の元武とともに周防屋代島(山口県周防大島町)へと移り、この日同地で没しました。