武将印紹介9 「最上義光」(墨将印)

本日1月18日は最上義光が亡くなった命日となります。

奥羽の驍将・虎将とも呼ばれる義光は身長180㎝以上あった人物で、戦場では重さ1750g(刀のおよそ2倍)もある鉄の指揮棒を振るって軍を鼓舞したという体躯の良い人物だったようです。

最上家に伝わる義光愛用の指揮棒

 

慶長十九年(1614)1月18日

出羽の謀将・最上義光が没す。享年69歳。

 最上義光(よしあき)は天文十五年(1546)に義守の長男として出羽山形城(山形市)に生まれました。幼名を白寿と称し、永禄三年(1560)に十五歳で元服、時の将軍・足利義輝から「義」の偏諱を賜り義光と名乗ります(元服は十三歳の時とする記録もあります)。

 義光は少年の頃から武勇に秀でていたらしく、十六歳の時に父義守と共に高湯(現在の蔵王温泉=山形市)で鷹狩りをした際、数十人の盗賊に襲われますが奮闘して撃退した話などが伝えられています。父義守は二男の義時を跡継ぎにと考えたことから義光と不和となりますが、元亀二年(1571)八月に義守は剃髪して出家、栄林と号して隠居したことにより義光が山形城主となりました。義光は領国の統治体制を強化すべく動き出しますが、これに最上八楯の筆頭・天童頼貞らが反発、弟の義時に加担して義光に対抗します。また義守との確執も続き、天正二年(1574)五月には義光の妹を室としていた伊達輝宗が最上家の内紛に介入、義光の軍と戦うなど家中は不安定な状態が続きました。九月になって伊達輝宗との和睦が成立、とりあえず「天正最上の乱」と呼ばれた家中の危機は脱しますが、天童氏との対立はなおも続きます。

 義光は翌三年に後継問題で対立抗争した弟の中野(最上)義時を攻めて自刃させ、同五年には天童氏を攻めました。最上八楯の中でも剛勇で知られる延沢能登守満延に対しては、満延の嫡子又五郎(遠江守)に娘を嫁がせて和議を結び、程なく臣従させて最上八楯の結束を切り崩すことに成功しました。

 義光の生涯は反抗する国人衆との抗争に明け暮れた感がありますが、慶長六年(1601)八月に関ヶ原合戦の際の戦功などで加増された際には、五十万石を超える版図が形成されていました。義光は同十六年三月二十三日に従四位上左近衛権少将に叙任され、その後長らく病の床に伏した後、この日山形城において没しました。

 

 

■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

  

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