武将印紹介8 「豊臣秀吉」(墨将印)

今月も24日「武士の日」に第16弾「墨城印・墨将印」が発売されます。

ちなみに御城印は「名胡桃城」「新府城」「飯盛山城」「岸和田城」「湯築城」「府内城」「佐賀城」「中城城」の8城が登場。
武将印は「長宗我部盛親」「鍋島直茂」「島津家久」「北条綱成」の4武将となります。^^

第16弾パーフェクトセットの特典はプレミアム御城印「駿府城 荘厳」+墨戦印「慶長出羽合戦」の2種類です。ぜひご検討くださいm(_ _)m

そして本日は慶長3年(1598)8月18日が命日だった「太閤様」こと豊臣秀吉の紹介です^^

一代の英雄・豊臣秀吉

 豊臣秀吉は天文六年(1537)2月6日、尾張中村の農民・木下弥右衛門の子として生まれました。誕生年には異説もありますが、母は後に大政所と呼ばれる「なか」、弟に小一郎秀長がいます。

 小瀬甫庵「太閤記」によると秀吉は幼名を日吉丸と言い、いきなり織田信長に仕えたわけではなく、8歳の頃に尾張光明寺に入ったものの後に流浪の生活を送り、20歳の頃になって遠江頭陀寺城(現・静岡県浜松市)城主・松下加兵衛のもとで初めて武家奉公しました。
 この加兵衛はよく松下之綱と間違われますが、最近の研究では之綱の父長則ではないかと言われています。そして秀吉が信長に仕えようと「直訴」したのは永禄元年(1558)9月1日とされています。その時秀吉が信長に言上したのは次のような内容でした。

「某父は織田大和守殿に事へ、筑阿弥入道と申候て、愛智郡中村之住人にて御座候。代々武家之姓氏をけがすと云共、父が代に至て家貧しければ、某微小にして、方々使令之身と成て、不能達君門。唯願くは、御蔭を仰奉存」

(私の父は織田大和守殿に仕えていた筑阿弥と申し、愛智郡中村の住人にございます。代々武家の端くれながらも、父の代に至って家が貧しかったので、私は幼い頃から方々に出される身となり、武家に奉公することが叶いませんでした。願くは、織田家の隅に加えて頂ければ光栄と存じます)

 対する信長は笑って「輔車(面構えの意)は猿にも似たり。心も軽く見えしが、気もよく侍らん」と言い、秀吉を召し抱えたといいます。そして家中では筑阿弥の子だということで「小筑」と呼びました。秀吉は信長に常に近侍し、色々な場面で気を利かせて次第に信長に気に入られるようになりました。秀吉は必死に働き、「雑用奉行」から小隊長へ、そして侍大将へと出世を遂げます。

 羽柴筑前守を名乗る頃には柴田勝家・丹羽長秀・佐久間盛政らに次ぐ武将となり ”木綿藤吉”と称されたように織田家になくてはならぬ存在となりました。信長の没後には一気に台頭して各地を順次平定、ついに天正18年(1590)に天下を統一して豊臣政権を樹立しました。

その秀吉も病には勝てず、慶長3年(1598)のこの日、京都伏見城にてその生涯を閉じました。享年62歳。
どうしても晩年のイメージが悪くなりがちですが、まさに一代の偉人、優れた天下人だったと言って良いでしょう。

■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

 

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