武将印紹介6 「三好長慶」(墨将印)

7月4日は『日本の副王』こと三好長慶の命日ということで本日は武将印の紹介です。

細川晴元政権の中枢

 長慶は室町幕府下で政権を担っていた細川晴元の重臣・三好元長の長男として1522年に生まれました。

 父・元長が有能過ぎたとも言われていますが晴元は次第に元長を危険視するようになり、1532年三好元長の弟・政長や木沢長政らと共謀。一向一揆を差し向けて元長を攻め滅ぼします。当時阿波にいた長慶はまだ11歳でしたが、父の仇でもある細川晴元らに仕えることになりました。

 長慶が上洛した翌年、細川政権は元長を滅ぼす為に自ら焚き付けた一向一揆衆を抑えきれなくなります。それを僅か12歳の長慶が仲裁役となって石山本願寺との和睦を成立させたと伝わっています。(『本福寺明宗跡書』)
 父の残してくれた家臣団は結束力も強く、家督を継いだばかりの長慶をしっかりと支えたようです。

   

 さまざまな合戦に参戦して政権内でも実力をつけた長慶は、1542年には父の仇敵である木沢長政を河内太平寺で討ちます。その後、細川晴元の弟・氏綱と手を組んで反旗を翻した三好政長とも戦って勝利します。しかし政長を討ち取ろうと追討の許可を求める長慶に対し、晴元がなかなか許可を出さなかったと言います。そのため長慶軍は1549年には晴元とも敵対する覚悟を決め、三好政長を摂津江口に討ち取って父の仇をとりました。

 

日本の副王

 その後、細川晴元との数年間にわたる戦いを制した長慶は、1553年晴元と将軍・足利義輝を京都から近江国朽木へと追放。ついに細川政権に代わる三好政権を樹立しました。

 弟の三好義賢(実休)・安宅冬康・十河一存に加え、松永久秀・長頼兄弟ら優秀な人材が揃っていた長慶は、芥川城(大阪府高槻市)を本拠地として、山城・摂津・河内・和泉を中心に阿波・讃岐から大和に至るまでその勢力を拡げました。将軍を追い出し政治の中心であった京都一帯と朝廷を抑えたという意味で、まさに信長よりも以前の「天下人」であり、このことが後世「日本の副王」という渾名で呼ばれるようになったきっかけでもあります。

 1560年に居城を河内飯盛城へ移しますが、ここからが長慶にとって不運の連続でした。

翌年、弟の十河一存が病没したのを皮切りに、義賢(実休)が戦死、嫡子・義興も病没と、3年の間に不幸が続きます。『足利季世記』などで知られる通説によれば、1564年に松永久秀の讒言を信じてしまい弟の安宅冬康を誅殺。そのショックもあってか、誅殺からわずか2か月後に病で亡くなったと言われています。享年43歳でした。

  

■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

 

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 ちなみに余談なのですが、先にも書いた通り長慶の「日本の副王」という渾名は後世で呼ばれるようになったとされています。当時のイエズス会の史料で実際に「日本の副王」として紹介されているのは、公方様こと足利義輝(『日本史』)と「山城と摂津の守護代…執政官あるいは副王」(『フロイス日本書翰』)と書かれている和田惟政の2名でした。

 また軍記物などから長慶は傲慢で殺戮を繰り返す人物という悪いイメージが定着してしまっていますが、近年ではその傾向も少しづつ見直されています。長慶は細川藤孝からも敬仰された当時を代表する文化人であり、『当代記』では「天下を保つ事二十年余に及び、歌道を好む風流人であった」とも紹介されています。さらに『朝倉宗滴話記』など江戸初期までに書かれた書物では度々名将としてその名が挙がっている人物となります。個人的には今川義元などと共にもっと評価されたらいいな~と思う武将の一人ですm(_ _)m