武将印紹介38「伊達政宗」(墨将印)

今日は伊達政宗公の生まれた日となります。

ちなみに墨将印で使用しているこちらイラストは装いも新たにした形で、東北大学のスーパーコンピューター「MASAMUNE-IMR」の筐体パネル部分にも採用されました!!

「伊達者」の名に相応しく、カッコ良さは折り紙付きです!!^^

 

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水玉文様柄の墨将印は騎馬姿の政宗公となります。

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ゆかりの地へ行かれた際などの記念として、ぜひ日付を入れてご使用ください♪^^

永禄十年(1567)8月3日 伊達政宗誕生

伊達政宗が出羽米沢城に生まれる。父は輝宗、母は最上義光の妹・義姫。

 独眼竜の異名で知られる伊達政宗は永禄十年のこの日、奥州の名族伊達氏十六代当主・輝宗の長男として出羽米沢城(山形県米沢市)に生まれました。幼名梵天丸、通称藤次郎、最終官位は従三位権中納言。母は最上義守の娘・義姫(保春院)、実弟に小次郎(政道)、異母弟に大悲願寺に入った秀雄(しゅうゆう)がいます。

 戦国期有数の名将と評される政宗ですが、その少年時代は不運と不遇のうちに過ごしました。幼少時の政宗は内気で人見知りをする子供だったといい、さらに五歳の時に天然痘を患って容貌が醜くなったことから、母・義姫からも嫌悪されたと伝えられます。以後母は弟の竺丸(小次郎)を偏愛するようになったため、家臣たちも先の不安を持っていたことでしょう。しかし政宗は天来の配材とも言うべき人物を得たことにより性格が一変、次第に非凡な才能を発揮します。

 その人物の名を片倉小十郎景綱といいます。景綱は政宗の十歳年上ですが、養育役に任ぜられると献身的に政宗を支えます。その頃政宗は病により醜く飛び出た右目の眼球を気にしていましたが、思い余って近臣に眼球を突き刺して潰せと命じました。いくら主命であれ、近臣とてさすがにこれには尻込みしました。しかし景綱は小刀を手に持ち、政宗の前に進み出て主命を果たします。以後景綱は政宗の片腕というより分身と言っても良い程の存在となりました。

 天正十二年十月、政宗は父輝宗の後を嗣いで伊達氏十七代当主となりますが、これに際しても母義姫が小次郎の相続を主張したため、家中が二派に分かれるというお決まりの愛分が生じます。輝宗は強引に政宗に家督を相続させると、まだ四十一歳の若さで自らは隠居しますが、翌年に畠山(二本松)義継に拉致され不慮の死を遂げるという不幸に見舞われました。一説に輝宗が自分もろとも義継を撃てと命じた際、政宗は意を決して父もろとも義継を射殺したと伝えられます。

 そして天正十八年(1590)四月、政宗は小田原北条氏征伐に出陣した豊臣秀吉から参陣命令を受けますが、その際に政宗を嫌う義姫と小次郎にあわや毒殺されるという事件が起きました。幸運にも難を逃れた政宗は小次郎を殺害、義姫を最上家に追い払いますが、この一連の事件により小田原に遅参するはめになり、白装束に磔柱を立てて赴いたと伝えられています。

 政宗は秀吉が没すと徳川家康に近づき、関ヶ原では東軍に属して活躍、以後徳川氏に仕え仙台藩六十二万石の大大名となっています。

 

想いを馳せるなら政宗公が愛した香りを・・・

「伊達政宗香」は仙台藩初代藩主伊達政宗が好んだ香木「柴舟」の香りをベースに青葉山に群生するモミとスギの香りをブレンドしたアロマスプレーです。仙台の地元業者さんが深緑に囲まれた仙台城で過ごした政宗公をイメージして素材にこだわって作った本格アロマです。

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