武将印紹介36「太田道灌」(墨将印)

本日7月26日は太田道灌が亡くなった日となります。

徳川将軍家の居城であり政庁でもあった江戸城の前身の築城を手掛けた太田道灌。

築城の名手とも伝わり、扇谷上杉家三代を名家宰として支えた戦国時代初期の逸材と言えます。

 

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文明18年7月26日(1486年)7月26日「当方滅亡」

相模守護代・太田資清(道真)の長男として生まれた資長(のちの道灌)。

 
25歳以前の道灌については殆ど不明ですが、扇谷上杉家三代(持朝-政真-定正)の家臣として家宰(上杉家に代わって家臣をまとめる役)に就き、江戸繁栄の基となる江戸城はじめ、河越城・岩槻城などの築城を20代で手がけたとされています。特に合戦においては「長尾景春の乱」を終結させるなどで関東一の戦功を挙げました。生涯三十数回戦ってほとんど無敗という戦の上手であり『文武両道の鑑』と称された名将として有名です。


 また当時主流であった武士同士の一騎打ちにこだわらず、農民を足軽として訓練して初めて合戦に大動員したのも道灌とされています。河越城や江戸城を拠点とし、統率の取れた「足軽戦法」と「馬返し」による奇襲などにより、山内・扇谷の両上杉家を上回るほどの軍功と名声を得るようになったといいます。そのため「山内上杉家があるのは自分のお陰」と書状で漏らすなど不満もあったようです。

 傲慢な態度は主君・扇谷上杉定正からも不興を買い、文明18年(1486年)7月26日、相州糟屋(神奈川県伊勢原市)の定正の館で暗殺されました。享年55歳。

 

『太田資武状』によれば、お風呂から出てきたところを狙われ、道灌はその死に際に「当方滅亡」と叫んだと伝えられています。また『太田家記』では上杉定正から江戸城などの要害を整備し謀反を企てていると指摘を受けた際、弁明しなかったため命を失ったと記されています。
 奇しくも道灌が「当方滅亡」と叫んだとされる通り、彼亡きあとの上杉家は関東進出を果たした伊勢宗瑞(北条早雲)によって扇谷上杉家は殲滅。山内上杉家も関東を追われて越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れたことで上杉家は関東の地盤を失うことになりました。

 

ちなみに「NPO法人江戸城再建を目指す会」の会長としてご活躍されております太田資暁さんは、道灌公の第18代目のご子孫となります。

戦国魂の墨城印も「NPO法人江戸城再建を目指す会」様のご協力で作らせていただきました^^
8月は江戸城の別バージョン(道灌公のときの江戸城ではなく、寛永度期江戸城ですが・・・)を検討中ですので、太田道灌や徳川家康・秀忠の墨将印と共にぜひご愛顧ください♪^^