御城印紹介15 真田丸(墨城印)

本日12月4日は大坂冬の陣真っただ中だった日となります。

そして慶長十九年(1614)12月4日のこの日、越前松平勢と前田勢が真田丸を襲いましたが、真田信繁(幸村)・大助父子に撃退されました。信繁と言えば上田にいた頃からも活躍が伝わっていますが、どちらかというと父・昌幸の功績が大きいので、個人としての活躍は大坂の陣が中心と言ってよいのかと思います。その戦いの中で昌幸の知略にも負けない活躍を果たし、後世で「真田幸村」として語り継がれる伝説を作った戦いの一つが真田丸での戦いです。

この年の十一月、徳川家康・秀忠父子は全国の大名に出陣を命じて大坂城の豊臣秀頼を攻囲、世に言う大坂冬の陣が開始されました。大坂方も浪人武将等を多く召し抱えてこれに対抗、城の南東には真田幸村・南条忠成・郡良列・中島氏種・長宗我部盛親・内藤忠豊らが控えていましたが、中でも幸村は敵方に突出した場所に真田丸と呼ばれる砦(出丸)を作り、さらに南の小橋(おばせ)村にある篠山にも従兵を配備して徳川方の来襲に備えていました。

 

 対する徳川方は真田丸に対しては前田利常を向かわせ、周囲に井伊直孝・松倉重政・桑山一直・古田重治・脇坂安元・寺沢広高・松平忠直らが布陣していました。家康は前田・本多・松平勢に命じて大型の竹楯を準備させ、前田利常の陣には直接出向いた上で、急に城を攻めず塹壕を掘り土塁を築いた後に大砲で射撃するよう命じました。

 

 利常が塹壕を掘りにかかったのを見た幸村は、篠山の兵を増やして銃撃を加えさせ、ために前田勢は多数の死傷者を出しました。十二月三日、秀忠から利常に対し、明日本陣を岡山に移すので篠山を攻撃して陣を進めるよう命令が下され、この日の早暁に利常の右翼の先鋒・本多政重隊が篠山へ向かいました。しかし幸村の方が一枚上手で、早くも間諜の報告によって徳川方の動きを察知した幸村は、すでに篠山の兵を一人残らず引き揚げさせていました。つまり政重隊は無人の篠山に恐る恐る肉薄していたわけです。

 また、左翼先鋒の山崎閑斎・横山長知らは暗夜に先を争って進軍したため、気が付いた時には真田丸の真ん前に来ていました。真田隊の兵はこれを討とうとしますが幸村は許さず、夜明けまで待って一人の兵を選び、篠山の失態を揶揄した上で「暇なら試しにこの砦を攻めてみよ」と挑発させました。これを聞いた政重の武将・奥村栄顕は怒って砦に殺到しますが、真田隊から猛烈な一斉射撃を浴びせられ、栄顕は重傷を負い前田勢の両先鋒には多数の死傷者が出ました。一方で井伊・松平隊も前田勢の前進に釣られて我先に進み、外柵を破って空壕に身を潜めますが、木村重成の迎撃に遭い退却を余儀なくされています。

 さらに戦いは城外へと広がり、幸村の子・大助幸綱と大坂方の軍監・伊木遠雄が駆け出て松倉・寺沢隊を撃破、そこへ大坂方の加勢も加わったため、結局徳川方は多くの死傷者を出して兵を引く羽目になりました。

 

 

 

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