武将印紹介10 「雑賀孫一」(墨将印)

本日5月2日は雑賀孫一の名を世襲したと考えられている人物の中でも、唯一亡くなった日がはっきりしている鈴木義兼の命日となります。

墨将印は一番有名な「鈴木重秀」で作っていますが、謎の多い鈴木一族「雑賀孫一」に想いを馳せてみて下さい^^

 

慶天正十七年(1589)5月2日

紀州雑賀党の猛将・雑賀孫一が没す。享年不詳。

 鉄砲集団・雑賀衆の頭領として知られる雑賀孫一は、鈴木孫一または平井孫一とも呼ばれますが、人物の特定が難しい謎の人物です。一般的には鈴木佐太夫・重朝・重秀・義兼などが挙げられますが、結論を先に言うと「雑賀孫一」とは襲名等も含む複数の人物の呼称と考えられます。

 この日没しているのは「平井孫市郎藤原義兼」なる人物で、その墓は和歌山市の蓮乗寺にあります。ご住職の話によると、佐太夫の三人の子が次々と孫市を名乗り、また孫の豊若も孫一を名乗っていたということで、その時代ごとに雑賀衆をまとめる立場についた人物が孫一と呼ばれていたようです。天正十七年に没していることから、年代的に見て石山合戦などで活躍した「雑賀孫一」である可能性はかなり高いのではないかと考えられます。

「本姓は鈴木孫市、雑賀荘鈴木左太夫第三男也、孫市は海士郡北山の麓平井村を領す(検地弐百石許今高五、六百石)。父鈴木左太夫は、天正中藤堂氏がために、那賀郡粉河城にて自殺す。雑賀孫市は羽柴家衰えて後は関東に仕へ奉り、所々勲功あり、御家人と成、子孫相続き、今水府に於て仕へ奉り、三千石を給ふ」(『ますをのすすき 海士郡(二)』)

 この記録では孫一は水府(水戸藩)の御家人となっており、佐太夫の三男すなわち重秀ということになりますが、水戸藩士として存命している以上、この日没した義兼とは異なる人物です。ちなみに『常山紀談』では「孫市重次」の名で見え、関ヶ原前哨戦の伏見城の戦いで徳川家康の重臣・鳥居元忠を討ち取った後に水戸藩に仕えた様子が書かれています。

 はっきり断定できないのが残念ですが、この墓に眠る義兼こそが、石山合戦で織田家の重臣・原田直政を討ち、信長をも負傷させる程の活躍をした「雑賀孫一」その人だったのかも知れません。

 

 

■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

  

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