武将印紹介42「服部半蔵」(墨将印)

本日11月16日は服部正成こと二代目・服部半蔵が亡くなった日となります。

初代半蔵の服部保長は伊賀国の忍者でしたが、子の正成は「槍の半蔵」の異名からも分かるようにすでに忍者ではなく武将でした。 
ですが伊賀・甲賀忍者などを従える上忍的な立場であったことは間違いなく、墨城印では服部半蔵本人も武将画でなく忍者寄りのイラストを採用しました。

 

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慶長元年(1596)11月16日服部半蔵死去

 世に伊賀忍者の頭領として知られる服部半蔵とは、通常は石見守正成のことを指します。正成は松平清康・広忠に仕えた半蔵保長の子で、「鬼の半蔵」の異名を持つ槍の達人として知られ、徳川十六将の一人に数えられています。

 半蔵の初陣は十六歳のときに行われた宇土城(上郷城=愛知県蒲郡市)攻めで、伊賀忍びを六、七十人を率いて活躍したとされますが、よくわかっていません。ちなみに家康は永禄五年三月、今川方鵜殿長持の拠る上郷城攻略の際、松井左近忠次(松平康親)を大将とし、甲賀忍びの伴与七郎資定ら八十余名を使って夜襲をかけ、ついに城を落としたといいます。しかし、半蔵の名は記録には見当たりません。

 さて、半蔵と言えば伊賀忍者のイメージがありますが、彼自身が忍術に優れていたというわけではありません。忍びたちを率いる立場、いわゆる「上忍」ではあったでしょうが、黒装束に身を固めて石垣を登ったり堀に潜ったりといった行動は、まずしていなかったと考えて良いでしょう。

 忍者の里と言えば伊賀と甲賀が有名ですが、戦国期の伊賀では中央部予野の千賀地服部宗家を中心とし、北東部東湯舟郷には藤林氏が、南部城山と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地氏がそれぞれ館を構え、「伊賀上忍三家」と呼ばれていました。伊賀は鎌倉末期まで、その国土の九割近くが大和東大寺の支配下にあり、東大寺の勢力が衰えると国人たちは庄園を侵略しました。このため戦国期には数十もの独立勢力が割拠、それらの中から選ばれた十二家の国人たちの合議によって自治が行われていました。これを伊賀惣国一揆といい、天正九年(1581)の織田信長による伊賀攻め(天正伊賀の乱)によって一国が焦土と化すまで続きました。

 半蔵は家康の長男信康が自刃した際、介錯を務めますがどうしても刀を振り下ろせなかったという話や、いわゆる「神君伊賀越え」での活躍が有名です。「神君伊賀越え」とは天正十年(1582)六月に本能寺の変が起き、当時堺にいた家康が急ぎ三河へ帰国する際の苦難の道中のことを指します。半蔵は多羅尾光俊や柘植三之丞清広、福地伊予守宗隆らとともに家康を守り、家康の関東入国後には与力三十騎・伊賀同心二百名の頭領として八千石を与えられました。

 ちなみに半蔵正成の墓がある西念寺(東京都新宿区)は徳川信康の供養のために半蔵が建てた寺で、また現在皇居に残る「半蔵門」の名は、半蔵正成・正就父子の屋敷がこの地にあったことに由来しています。