武将印紹介28「滝川一益」(墨将印)

天正十年(1582)3月23日は織田四天王の一人・滝川一益が関東管領となった日です。織田家で鉄砲に精通した人物で甲賀忍者だったとも伝わる謎多き人物となります。本日は滝川一益をご紹介です^^

 織田信長に早くから仕えた重臣で、鉄砲の射撃術に秀でたとされる滝川一益は、一説に大永五年(1525)、近江甲賀郡櫟野(いちの)城(滋賀県甲賀市)主・一勝の三男として近江甲賀郡大原庄に生まれました。幼名久助、のち左近、左近将監、また一時伊予守を称します。その出世は早く、永禄十年(1567)の北伊勢侵攻では大将に任ぜられ、天正二年の長島一向一揆討伐後には安濃郡以北の北伊勢五郡を与えられて蟹江城(愛知県蟹江町)・長島城(三重県桑名市)を本拠としました。

 天正十年(1582)三月、信長は甲斐の武田勝頼を滅ぼしますが、一益は信忠付きの副将格として活躍、勝頼を田野に追い詰めて自刃させ、その首を挙げています。信長はこの日、一益の戦功を賞して上野一国と信濃佐久・小県二郡を与え、関東管領に任じました。ここに一益は信長から関八州の警固と東国の取り次ぎ役を任されることになりますが、柴田勝家(対上杉氏)、羽柴秀吉(対毛利氏)とともに、一益は対北条氏の指揮官として起用されたわけで、織田家中における存在の大きさが窺えます。

 

 しかし、一益が関東管領として存在したのはほんのわずかの期間でした。同年六月二日に信長が本能寺に倒れると事態は急変します。北条氏が一転して敵に回り、一益は十八日に神流川(かんながわ)で北条氏邦勢を破りますが、翌日に北条氏直勢と戦って大敗、箕輪から小諸~木曽を経て伊勢長島へ戻ります。

 

 織田家では信長の後継者決定会議、世に言う清洲会議が六月二十七日に行われていますが、一益は会議に間に合わず、これ以後織田家宿老からも外されることになります。一益は柴田勝家と組んで秀吉と対立する立場を取りましたが、結局勝家は秀吉に滅ぼされ、一益も降伏して北伊勢五郡の所領は没収されました。秀吉は捨扶持(堪忍料)五千石を一益に与えて越前大野に蟄居させますが、同十二年に秀吉と織田信雄・徳川家康が一戦に及ぶと、一益は失地回復の絶好の機会とばかりに秀吉に従い、徳川勢と戦い一時は蟹江城を奪い返しました。しかし反撃に遭い再び城を奪われたため秀吉の怒りに触れ、一益は京都妙心寺に入って出家、入庵と号しました。以後一益は歴史の表舞台に登場することはなく、同十四年九月九日、僧体のまま越前五分一の地で亡くなっています。

 

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