幕末・維新グッズ専門店「黒船社中」




フロントの左胸にはワンポイントで斎藤家の家紋【九枚笹】をあしらいました。
金色のラメで高級感のあるデザインとなっています。

バックプリントには大きく左利きの剣士・斎藤一が描かれています。



スタンダードなフォルムのユニセックス。
久米繊維工業の「LE WINNER」を使用しています。
30年以上リピーターに支持され続けている、ベストセラー ル・ウィナーTシャツ。

空気が1枚はいっているような適度なフィット感が、日本のTシャツ好きに愛されてきました。
まさに "JAPAN'S FAVORITE T-SHIRTS" と呼ぶにふさわしい一品です。

丈夫なバインダー衿は、度重なる洗濯にも耐え、永くご愛用いただけます。
国内で丁寧に紡ぎ編み上げられたやわらかで光沢のある30番手コーマ天竺の生地は、あざやかな発色、しなやかな肌ざわりで、着る度になじみ風合いがでてきます。



シルクスクリーンという方法でプリントしています。
デザイン1色毎に版を制作、その版にインクを入れ専用のスキージで生地に直接、刷りつけていきます。
職人さんが1枚1枚、手仕事で丁寧に刷っています。

「斎藤一 ~楓~」Tシャツはボディの紺色と馴染む色合いを追求し、試作を重ね、紫を基調とした3色を使用しました。
バックプリントだけでシルクスクリーンを3版使用した贅沢なデザインです。


肩には黒船社中オリジナルネームが縫い付けられています。 織ネームを使用しています。 織ネームとは、プリントではなく糸を織りこむ方法です。
西陣織などの帯のように、あらかじめ経(た)てられているタテ糸に、ヨコ糸を交差させて模様が描かれています。




【斎藤一と会津】 弘化元年(1844)年生まれ。
斎藤一は、出自や経歴は定かではなく謎の多い人物です。
一般的には、元は明石藩の足軽だった父・山口祐助が後に御家人株を買い、齋藤は天保15(1844)年1月、江戸で御家人の子として生まれたとされています。
つまり、山口一というのが本来の姓名です。その後に齊藤一、山口次郎、一瀬伝八などと改名し、西南戦争に従軍するころには藤田五郎と名乗っています。
名前が多い斎藤ですが、漢数字をつけることにはこだわりを感じます…。

文久3(1863)年3月、新選組の前身「壬生浪士組」の結成に加わったことで彼の名は歴史の表舞台に登場するわけですが、新選組在籍時点で主に「齊藤一」の姓名を使っていたことで、広くこの名前で知られることになりました。
京都時代の斎藤は、当初から副長助勤に抜擢されるなど新選組の幹部として活躍します。剣の流派は一刀流とも無外流とも言われていますが、これも確かなことがわかっていません。
ただ、新選組の中でも随一の腕前だったのは間違いないでしょう。  新選組で最も剣の腕が立ったといわれる永倉自身は後年、
「斎藤一は剣術の達人であった」(『新撰組顛末記』)
 と認めています。
 アンチ新選組で有名な京都・西本願寺の寺侍、西村兼文ですら、 「局中一二ノ剣客」(『新撰組始末記』)
 と評価しており、やはり相当な剣客だったのではないかと思います。
戊辰戦争においては、旧幕府軍として新政府軍と戦います。

斎藤は本来、会津藩と深いつながりがあるわけではないにもかかわらず、最後まで会津藩を見捨てずに、身も心も会津に捧げました。 私は斎藤の、そんな義理堅さや誠実さに惹かれます。
戊辰戦争のなかで、新政府軍が会津になだれ込んできた「会津戦争」が始まると、京都以来、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争をともに戦ってきた仲間たちは散り散りになっていきました。
近藤勇は板橋で斬首され、沖田総司は病死。永倉新八や原田佐之助は袂をわかって靖兵(共)隊として各地を転々としていました。土方歳三も援軍を求めて庄内藩へと転戦をはかっていて、会津城下を出ています。ほかの新選組隊士も含めて旧幕府脱走軍は、会津を出て仙台に移ることを考えていました。
斎藤は新選組が溶けてなくなっていくのを感じて、どんなにか寂しかったでしょう。しかし新選組がなくなっても、斎藤の中で新選組の掲げた「誠」は消えませんでした。
斎藤は、会津を去ろうとする仲間をみて、こう宣言します。
「一とたび会津(に)来りたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」
斎藤は、土方やほかの大多数の新選組隊士と行動をともにせず、会津に残って戦う決断をするのです。
どうして彼はそこまで「会津」に尽くしたのでしょうか。
私の勝手な解釈ですが、斎藤は父が御家人株を買った江戸には特別な思い入れはなく、初めて強烈な帰属意識を感じたのが彼の青春の代名詞、新選組。そして新選組を取り立ててくれた会津藩には特別な恩を感じ、戊辰戦争で戦っていくうちに、会津に対しての深い思い入れが芽生えていったのではないかと思います。
新選組を取り立ててくれた会津が、幕府に殉じて新政府軍と戦い、落城が迫るのを見捨てられなかったのでしょう。会津で戦うことが斎藤にとっての「誠義」の道だったんだと思います。
後に会津娘と結婚したことで、より故郷という思いが強まっていったのでしょう。

ところで斎藤は、新選組時代御陵衛士のスパイ活動をしていたとも言われています。 寡黙で真面目な性格が、スパイとして適役だったのかもしれません。
多くを語らなかったので、分からないことも多いのですが、そのミステリアスな経歴とあいまって、独特の存在感を放ち、今、新選組隊士の中でも最も注目されている人物です。
大正4年死去。享年71歳。
亡くなるときは畳の上に座布団をしき、正座をしたまま息をひきとったといいます。
日本人らしい姿勢で、最後の最後まで武士だったんだと感じますね。
本人の希望により、今も会津鶴ケ城近くの阿弥陀寺で眠っています。

特徴:左利き,左片手一本突き

名言:「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
『斎藤一~楓~』Tシャツ
『斎藤一~楓~』Tシャツ

新選組シリーズ 『斎藤一~楓~』Tシャツ

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